2018年2月22日木曜日

昔 話


私は、静岡県焼津市生まれの焼津市育ちであることから、地元の焼津神社に初詣などで参拝に出掛ける機会が多くあります。焼津神社は、倭建命(焼津神社では「日本武尊」と称しています。)を祀った神社であり、このことから私は倭建命に深い興味を抱きつつ育ちました。
そこで、倭建命(ヤマトタケルノミコト)とその后弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)の物語の一節をご紹介したいと思います。
倭建命は、第12代景行天皇の第2皇子であり、当時天皇となるに最も近い立場にあったにも拘わらず、父景行天皇に疎まれ全国各地を転戦させられ、その途中で崩御した悲劇の英雄と伝えられています。
弟橘比売命は、大和朝廷に従わぬ地方豪族を討伐するため東奔西走する夫の身を案じ、東国へ発ったとき夫に同行しました。そのようなとき、相武国(サガムノクニ・現静岡県)の野中で火攻めに遭い、草薙の剣で草を掃って難を逃れた倭建命一行は、走水(現神奈川県横須賀)の海から上総(現千葉県木更津)に渡ろうとしていました。ところが、突然強風が起こって海が荒れ狂いました。海神が怒り、生贄を求めているのです。弟橘比売命は倭建命の窮地を救うべく、自ら海に身を躍らせました。相模で炎に巻かれたとき自分を守ってくれた倭建命の優しさと、夫の役に立つことへの喜びを胸に、犠牲になる道を選んだのでした。后である弟橘比売命は、夫の担う責務を全うさせるため、延いては国の安寧のためと、瞬時に判断を下したのです。弟橘比売命の身体を飲み込んだ海は、たちどころに凪いました。後に一行は、無事に木更津に上陸します。一瞬のうちに妻を失った倭建命は、何日も海岸を彷徨い続け、海辺に身を伏して身も狂わんばかりに嘆き悲しんだといいます。
千葉県の「木更津」と云う地名は、倭建命が叫んでいた「君去らず」(君よ、去らないでくれ)が由来と伝えられています。
 献身的な愛とは命がけなのだというお話しです。皆様は、如何感じられたでしょうか。


2018年2月14日水曜日

静岡マラソン

 来る3月4日(日)は、第5回の静岡マラソンが開催されます。静岡マラソンの前身は、駿府マラソンで、ハーフマラソンと10Km・5Km・3.2Kmと小学生から大人まで参加できる大会として永く市民に親しまれてきましたが、全国的なマラソンブームに乗って、平成26年の大会(第1回)からフルマラソンを中心とする大会に変更しました。

マラソンブームの火付け役は、なんといっても平成19年から始まった東京マラソンで、参加するのには今でも高い倍率の抽選を勝ち抜かなくてはなりません。

静岡マラソンがフルマラソンに変更したことに伴い参加料もそれまでの4200円から1万円と少々高額となりました。もっとも、現在の都市型マラソンの登録料はみな1万円以上ですので、静岡マラソンが特に高いというわけではありません。そもそも、マラソン大会の運営は、ランナーの参加料だけで運営することは不可能で、自治体の財政や寄付金によるところが大きく、運営は多くのボランティアに助けられています。

コースは、静岡県庁前をスタートして市内をぐるっと15Kmまわった後に安倍川沿いを河口まで下り久能海岸を旧清水市まで走り、清水駅前でゴールするというフラットで記録もねらい易いコースとなっています。

私も、この大会を照準に3時間30分を狙って毎年走っているのですが、これがなかなかクリアできません。

さて、静岡県内のマラソン大会ですが、大小様々な大会がざっと60以上開催されていて、フルマラソンは「しまだ大井川マラソンinリバティ」(10月)、「袋井クラウンメロンマラソン」(12月)、「静岡マラソン」(3月)、「掛川新茶マラソン」(4月)と4大会も開催されマラソンの環境には恵まれています。全国で開催されているフルマラソンの大会は79で、この数字からも静岡県の開催数の多さが分かりますよね。ちなみに、お隣の愛知県でのフルマラソンは「名古屋ウイメンズマラソン」が有名ですが、その名が示すとおり男性は出走できません。それ以外のフルマラソンは、同じコースを4回まわる大会が1つあるだけです。唯でさえ苦しいマラソンなのに、同じところを4回もまわるコースは厭になリますよね。

それでは、なぜ静岡にフルマラソンの大会が4つもあるのでしょうか。これは交通規制にかかわる問題が大きいのではないかと考えています。まず島田ですが、市内を4Kmほど走った後は、ゴールまで大井川の河川敷を走りますので交通規制は、市内を走り終わるまでの僅かな時間だけで済みます。そのためゴールの制限時間も7時間と極めて緩やかに設定されています。袋井のスタートとゴールは「エコパスタジアム」、掛川のスタートとゴールは「つま恋」といずれも市街地から離れていて、コースは田・茶畑の間や山の中を走り市街地は僅かです。したがって袋井と掛川は、起伏の激しいコースとなっており記録を狙うには不向きです。参加料は、島田が7500円、袋井・掛川は、いずれも6000円です。

静岡マラソンは、市街地も走ることから、大規模な交通規制を行う必要があり、ボランティアを含めて、多くの人の協力で成り立っています。

春を迎えるにふさわしい静岡マラソンですが、いつか皆さんも挑戦してみませんか。完走後にはきっとすばらしい景色が見えるはずですよ。

宮内豊文

2018年2月9日金曜日

私の祖母

私の祖母は20年ぐらい前に亡くなりました。孫の私にとっては気楽な人でした。先日、祖母が残した手記が見つかりました。満州から引き揚げてくる道中のことを書いたものでした

「山の上に軍人らしい日本人がいるとの話を聞いてソ連兵が飛んで来て「戦いに使用するものがあるだろう。出すように。もし探して出てきたときには全員撃ち殺す」と機関銃をバリバリ撃ち始めた。」

「次の日夜十二時ころ、周辺の部落の暴民が馬に乗って略奪に来た。…翌晩も十二時ごろになるとまた襲ってきた。私達は子供を連れて草むらに潜んで逃げた。運悪く梅村さんの子供さんが脱腸で痛みが激しく、大きい声をあげるので、聞こえるのを恐れてお母さんが子供さんを布団に包んで逃げた。馬賊が引き揚げたので子供のそばに戻り布団から出したところ、子供さんは息絶えてしまっていた。

「日の丸の旗が子供のパンツに使用されているのを見た時は、とてもやりきれない気分でした。負けたというのは惨めなもの、いつも小さくなって過ごしてきた。」

「朝早くから、表が騒がしく何かと思って外に出ると、台の上に日本の男の人が立っている。回りには沢山の外国人。…年をとった外国人が「スーラ、スーラ。」と叫ぶ。…間もなく「ダダーン」とピストルの音がして台上の日本人郵便局長は倒れた。外国人が台上にかけ上がり、着ているものは勿論下帯まで持ち去った。この肉親の惨劇を目の前にした局長さんの奥さんは、この様子に気が転倒したのでしょう。二人の男の子を残して山に逃げてしまったままついに帰って来なかった。子供のためにも一緒に強く生き抜いてほしかった。

「ある奥さんがお産をしたが、乳が出ず他に与えるものがない。赤ちゃんが日増しに小さくなっていく。私は見ておれず砂糖でもあったらと町へ出た。どこへ行っても日本人には売ってくれない。途端に外国の兵隊につかまってしまって時計をとられそうになった。…ようやく釈放されて宿舎に戻った。急いで赤ちゃんのところへ行ってみると死んでしまっていた。お母さんが乳の出ない乳房をつくづく見ていた。親の愛情を与えることが出来なく冷たくなった子供をいつまでも抱えて離さなかった。」

一人の工員さんがしきりと鏡を見ていた。鏡の中に遠い日本の姿を求めているようだった。手を握ってあげた。やせた冷たい手だった。その夜遠いところへ旅立ってしまった。そっと鏡を持たしてあげた。

外国の女の兵隊が日本人を並べて持ち物を調べていた。私達の前に来て子供が持っている人形を見て「アイヤ―テンハオ…」と言って取り上げられた。驚いたが子供は声一つ出さず私の顔を見た。私は「日本に帰るともっと大きなのを作ってあげるからね」と言って納得させたが、納得出来ないのは私の方で、あの人形にはありったけのお金が入っているのにこれから先どうしたら良いやらと思っていた矢先、突然大きいピストルの音がして男の人が倒れた。風呂敷包みを取られそうになり手を出したためで、撃ったのは先ほど子供の手から人形を取り上げた兵隊だった。

「中国人の子供が「シンジョウ、シンジョウ」と言って子供に何か持たしてくれた。お金だった。たとえ少なくとも、心が有難く「シェシェ」と何度もお礼を言って別れたが、思わぬ嬉しい贈り物に、この子供達が大きくなった時には、手を取りあって仲良く行けるようになるだろうと、明るい気分になって足の痛みも忘れて歩きつづけた。口が乾いたので川の水をすくって飲んだ。少し上の方で豚を洗っていた。」

「お金がないから何も買うことが出来ない。中国人の家に洗濯に出掛けた。出るときはいつも子供と二人で行くようにした。ある日訪れた家は前に日本人が住んでいたらしく日本の下駄が隅の方においてあったのが哀れであった。この家の奥さんが気の毒だと、私たちを食堂に案内してくれて真白いご飯をお皿一杯出してくれた。子供は驚いた様子で久しぶりの白いご飯に飛んで行って手づかみで食べはじめた。私は悲しくて涙が出た。こうなったのも戦争のためだ。…表に出た。子供の欲しがった「りんごと豆腐」を買って帰った。子供は「あしたもまた今日の家に洗濯に行こう」と言ったが…「あしたは休みたい」と言ってその場を繕った。

 祖母は、私の母を連れて、終戦の翌年、昭和21年10月20日に佐世保港に着いたそうです。焼け野原の広島を通り、故郷の浜松に帰った後も、どうも苦労は続いたようで・・・。母からの伝聞ですが、床の上でご飯を食べる祖父(祖母の夫ですね。)の家族とは別に土間に座ってご飯を食べたり、私の母の給食費を借りに姉の嫁ぎ先に行ったときに「お前に貸す金はない。」と断られたりしたそうです。

 本当、ご苦労様でした。私だったら耐えられそうもないかな。でも、繰り返しになりますが、私の知っている祖母は気楽な人でした。外国人から耐え難い屈辱も受けたでしょうに、笑い話はしても、恨めしいことは何もいいませんでした。
ここまで書いてきて、ふと酒井さんの奥さんのことが思い出されました。話の流れで奥さんが掃除をしない、ご飯を作るのが面倒という話になったとき、「掃除しなくても死なないら。一日ぐらい食べなくても死なないら。」と笑っていっていたような・・・。

小楠